現在、北海道のみならず、日本を代表する観光地の一つとなっている小樽のシンボル、小樽運河は、2023年、誕生から100年を迎える。運河建設時と戦後の運河保存論争、2回の論争を経て、半分が埋め立てられ、街路灯や散策路等の整備によって観光資源となり現在に至るまで、その100年の歴史をひも解いていくと、物流都市から観光都市への小樽のまちの変遷が見えてくる。

■港整備の一環として誕生

小樽運河は、陸地を掘り割って造成する一般的な運河とは異なり、小樽港の整備、埋め立て工事の一環として造成されたという特殊な性格を持つ。そのため、小樽運河の成り立ちを考えるには、小樽港の整備の歴史を遡る必要がある。

小樽は、江戸時代以来、ニシンの好漁場であったことから場所請負人たちが進出し、幕末から海岸を埋め立て、港が次第に整備されていった。明治2(1869)年、場所請負制が廃止となると、本州と小樽間の物流を担っていた北前船の往来が急増、道南を拠点としていた商人たちが次々と小樽へ移転し、商業地が拡大していった。

また、明治15年、幌内の石炭を小樽港に輸送するための幌内鉄道が全線開通した。その前年、明治14年には小樽港に手宮桟橋が完成し、南の信香から北の手宮まで海岸通りが開通し、さらに土地の需要が高まり、計画的に埋め立て工事が行われるようになった。同年、「小樽港海面埋立地仮規則」が定められ、18年に「後志国小樽港海面埋立規則」として正式に交付されると、埋め立てによって北浜・南浜町が造成され、多数の石造倉庫が建造されていった。

小樽港は、明治22年に特別輸出港、同27年には特別貿易港、同32年には国際貿易に次々と指定され、寄港する船舶と取扱い貨物が急増した。港での搬出入作業の効率化が求められるようになり、小樽港は全面的に修築されることになった。明治29年、帝国議会で小樽港修築が議決され、北・南防波堤の築造が決定する中、町総代人たちは「小樽築港・水道期成同盟会」を立ち上げ、調査研究を開始した。明治30年には、小樽港湾調査委員会が設置され、小樽港の港湾整備のあり方の検討が進められることになった。

当時、大型の船舶が直接接岸できる近代的な埠頭の建設が検討されていたが、予算規模が大きく、海面の埋め立てにより運河をつくる案も出され、埋め立て計画は二転三転を繰り返した。「運河式」の案は町総代人たちが議論していた頃からすでに出されていたが、公的な埋立計画の中に初めて「運河」の名称が使用されたのは、明治36年の「小樽港修築設計説明書」とされる。

その後、明治37年に両案ともに修正した上で、埠頭方式に近い内容として和解が得られたが、資金源と考えていた区債の発行が不調となり、工事着工は延期されることになった。

そんな中、明治42年7月、北防波堤建設を主導した土木工学者・廣井勇が欧米視察から帰国した。同月21日、小樽区役所での講演で、廣井は「本港ニ於ケル貨物ノ種類荷造リノ方法等ヨリ観テ埠頭岸壁ニヨル貨物ノ積卸シハ他日ニ譲ルトシテ艀船ヲ利用スル運河式ノ方ガ便利デアル」と述べた。

直ちに決定したわけではないが、廣井の助言は、膠着していた小樽港湾修築計画に大きな影響を与えた。道庁から3ヵ所の変更を求められたが、運河式が採用されることになり、大正3(1914)年、工事が着工した。

大正8年度中に工事が終了する予定だったが、その後も運河式に対する反対が根強く、小樽区議会は紛糾し、区長が辞職する事態に発展するなど、さらなる紆余曲折を経て、当初の予定から4年遅れて大正12年12月27日に竣工した。

水路を掘削して造成する一般的な運河とは異なり、小樽運河は海上に埋立地を造成して海岸との間に水路を形成する方式を採ったため、大量の埋め立て用の土砂が必要になり、海底の土砂や手宮裏の石山の土砂を利用した。小樽港の海底は非常に硬質で、当初、使用していた海底土を掻き揚げるバケット式の浚渫船では効率が悪かったため、プリストマン式と呼ばれる海底土を掴み取る浚渫船を青森港から取り寄せるなど、工事は試行錯誤の連続であった。

完成した運河には、100トン積の艀40隻が同時に係留できるようになり、港岸はすべて倉庫用地として利用できるようになった。現在、運河は、全長1140mとされるが、当時は、1324m、1315mなど様々な数字が記載されている。これは小樽運河が海岸の沖合を埋め立てて築造されたため、緩やかに湾曲しており、計測方法によって異なるためである。

竣工時、完工祝賀を兼ねた式典が予定されていたが、同年9月に発生した関東大震災の影響で延期され、翌年、大正13年8月25日、埋立地に建てられた北海製罐社屋で開催された。当時の内務大臣・若槻礼次郎をはじめ600人が参列。10時には開式を告げる号砲が市内に鳴り響き、港に停泊する船が一隻に汽笛を鳴らし、運河沿いに並ぶ倉庫の軒には日の丸の旗がはためき、港の艀は飾り立てられるなど、まちを挙げての祝典となった。

しかし、あくまで祝典は「小樽港湾修築完工式」であり、「運河」が単体で言及されることはほぼなかった。運河建設をめぐる論争から竣工までの大正初期から後期にかけて、小樽の商圏は樺太、千島、カムチャッカに及び、年間入港船舶数は約6200隻に及ぶなど、世界の商港となった。さらに、第一次世界大戦の影響もあり、小樽経済は飛躍的に発展し、北日本随一の経済都市に成長した。

その一方で、当時、北海道長官の土岐嘉平は、艀荷役は時代遅れの荷役方法であって、早晩、大型船を岸壁に横付けできる埠頭に切り替えて行く必要があると指摘しており、廣井勇は、運河完成の3年後に刊行した『日本築港史』で同様に指摘している。竣工までに実に10年の歳月と190万6千円余の予算がかかっていた。この間、時代は変化し、小樽運河が機能した期間を短くしてしまったといえよう。

■役割終え、市民運動で存続

運河完成後、小樽港は最盛期を迎え、大正14年には沖合の船と運河を行き交う艀は、約600隻、沖仲仕と呼ばれた港湾労働者は1300人以上にも及んだ。しかし、昭和2(1927)年から開始した小樽港第二期修築工事で埠頭の建設が次々と進められ、昭和7年には堺町岸壁が完成。当時、すでに埠頭に接岸して直接船から貨物の積み下ろしできるようになりつつあり、運河は短期間でその役割を終えた。

その後、小樽港が衰退し、自動車の時代となると、昭和41年に運河を埋め立てて道道臨港線を建設する都市計画が決定した。実際に工事が始まり、有幌地区の倉庫群の取り壊しが進んでいくと、危機感を持った経営者・歴史研究者の越崎宗一氏、商業デザイナーの藤森茂男氏らはじめとする市民が立ち上がり、昭和48年12月4日、越崎氏を会長として「小樽運河を守る会」発起人会が結成された。今年は運河保存運動開始から50周年にもあたる。

運河埋め立てを推進する経済界からの圧力等により、両氏が運動から退場し、低調となったが、昭和53年、峯山冨美氏が小樽運河を守る会の2代目会長に選出されると、若い世代の参加もあり、市民の間に運動が広がっていった。同年7月には第1回ポート・フェスティバルが開催された。十数年に及ぶ論争の末、昭和61年、運河の一部が埋め立てられ、龍宮橋から北側が半分の20m幅となり、散策路等が整備され、現在の姿に生まれ変わった。運河保存派は「敗北」したとされるが、歴史的建造物などを再生し、観光まちづくりに活用していく流れは小樽だけでなく、全国各地に拡がっていった。小樽港の発展を支えた運河は、運河論争を経て、小樽が観光都市として再生し、歴史文化を活かしたまちづくりのきっかけとなったといえる。

■観光まちづくりへ

今年、小樽では運河誕生100年を記念して、小樽商工会議所青年部、小樽青年会議所、小樽堺町通り商店街振興組合など、若手経営者を中心に小樽運河100年プロジェクトが結成された。運河竣工日の100日前にあたる9月16日から12月27日まで、様々なイベントが開催されている。

小樽の重要な観光資源である運河を活用し、次の100年の小樽の観光・まちづくりの進むべき姿を探る取り組みであり、特に、小樽観光の課題とされる夜の魅力を高めること、すなわちナイトタイムエコノミーの充実により、新たな観光客を呼び込み、若い世代が小樽に住み、働くという好循環を創り出すことにつなげることが大きな目的となっている。

小樽運河はいまも小樽のまちとともに歩み続けているのである。


著:高野宏康

小樽商科大学客員研究員。1974年石川県生まれ。明治大学卒業、神奈川大学大学院博士後期課程修了。博士(歴史民俗資料学)。2013年、小樽商科大学に着任。専門は地域資源論。歴史文化とその観光資源化の研究に取り組む。小樽地域遺産連合会顧問などを歴任。

【参考文献】『小樽市史第一巻』1958年)、『小樽市史第二巻』(1958年)、『小樽運河史』(1979年)、『小樽運河戦争始末』(1986年)、『写真集小樽築港100年のあゆみ』(1997年)、『峯山冨美没後10年記念誌 あなたのまちを愛してね』(2021年)